神奈川県(かながわけん)は、関東地方の南西端、東京都の南に位置する県。都道府県別人口は東京都に次いで全国第2位(2007年7月1日現在8,889,933人)、面積は全国43位 (2,415.84km²) の規模。県庁所在地は横浜市。
県東部の横浜市、川崎市は、都市化・工業化が進んでおり、東京湾に面した京浜工業地帯の一角を形成する。県西部は緑豊かな丹沢山地から箱根山、小田原市が続き、県中央部は相模川が相模原市、厚木市などの平野部を流れて平塚市から相模湾に注ぐ。県南東部は、平野部の藤沢市に並ぶ鎌倉市から三浦丘陵が始まり、戦前からの軍港都市・横須賀市がある三浦半島に続く。
県域は、古くは相模国の中心である相模湾沿岸部と相模川流域部が栄えた。川崎市と横浜市の大部分を占める武蔵国の領域は、古東海道(矢倉沢往還)沿いと東京湾沿岸を中心に小規模な農漁村が形成された。古代には平塚市付近に国府が置かれたと推定され、大磯町には高句麗(朝鮮半島北部から満州に至る古代国家)からの渡来人居住地が置かれた。平安時代から武士団の活動が活発化し、鎌倉時代には鎌倉に幕府が置かれた。戦国時代には北条氏(後北条氏)の拠点である小田原が隆盛を誇った。江戸時代には幕府の置かれた江戸への交通路として東海道が整備され、東京湾沿岸部の開発が進んだ。県域には幕府直轄の代官支配地と旗本・御家人の所領が多く配され、大名領は規模の小さい3藩(小田原の小田原藩、厚木の荻野山中藩、横浜・金沢の六浦藩)のみである。幕末には横浜港が開港され、明治時代に入ると東京湾沿岸部を中心として発展した。戦前・戦後を通じて、東京一極集中に伴うベッドタウン化などにより人口も増加したため、県内には過疎市町村がない(同様の例は他に大阪府のみ)。
葛飾北斎作、富嶽三十六景『神奈川沖浪裏』神奈川県の名は、東海道筋に古くから栄えた宿場町神奈川宿(現在の横浜市神奈川区)に由来する。横浜開港に伴い、安政6年(1859年)武蔵国久良岐郡野毛村(現・横浜市西区紅葉ケ丘、神奈川県立図書館付近)に 「神奈川奉行所」が置かれた。その後、新政府による神奈川奉行所の接収を経て、横浜裁判所、神奈川裁判所、神奈川府などの名称の変遷をたどり、明治元年9月21日に神奈川県が置かれた。なお、神奈川県史では、神奈川奉行所を横浜裁判所に改名した慶応4年3月19日を立庁記念日としている。 「かながわ」の名はかつて神奈河、神名川、上無川などとも書かれてきたが、これらが変化して神奈川になったと言われる。(Wikipedia)
県東部の横浜市、川崎市は、都市化・工業化が進んでおり、東京湾に面した京浜工業地帯の一角を形成する。県西部は緑豊かな丹沢山地から箱根山、小田原市が続き、県中央部は相模川が相模原市、厚木市などの平野部を流れて平塚市から相模湾に注ぐ。県南東部は、平野部の藤沢市に並ぶ鎌倉市から三浦丘陵が始まり、戦前からの軍港都市・横須賀市がある三浦半島に続く。
県域は、古くは相模国の中心である相模湾沿岸部と相模川流域部が栄えた。川崎市と横浜市の大部分を占める武蔵国の領域は、古東海道(矢倉沢往還)沿いと東京湾沿岸を中心に小規模な農漁村が形成された。古代には平塚市付近に国府が置かれたと推定され、大磯町には高句麗(朝鮮半島北部から満州に至る古代国家)からの渡来人居住地が置かれた。平安時代から武士団の活動が活発化し、鎌倉時代には鎌倉に幕府が置かれた。戦国時代には北条氏(後北条氏)の拠点である小田原が隆盛を誇った。江戸時代には幕府の置かれた江戸への交通路として東海道が整備され、東京湾沿岸部の開発が進んだ。県域には幕府直轄の代官支配地と旗本・御家人の所領が多く配され、大名領は規模の小さい3藩(小田原の小田原藩、厚木の荻野山中藩、横浜・金沢の六浦藩)のみである。幕末には横浜港が開港され、明治時代に入ると東京湾沿岸部を中心として発展した。戦前・戦後を通じて、東京一極集中に伴うベッドタウン化などにより人口も増加したため、県内には過疎市町村がない(同様の例は他に大阪府のみ)。
葛飾北斎作、富嶽三十六景『神奈川沖浪裏』神奈川県の名は、東海道筋に古くから栄えた宿場町神奈川宿(現在の横浜市神奈川区)に由来する。横浜開港に伴い、安政6年(1859年)武蔵国久良岐郡野毛村(現・横浜市西区紅葉ケ丘、神奈川県立図書館付近)に 「神奈川奉行所」が置かれた。その後、新政府による神奈川奉行所の接収を経て、横浜裁判所、神奈川裁判所、神奈川府などの名称の変遷をたどり、明治元年9月21日に神奈川県が置かれた。なお、神奈川県史では、神奈川奉行所を横浜裁判所に改名した慶応4年3月19日を立庁記念日としている。 「かながわ」の名はかつて神奈河、神名川、上無川などとも書かれてきたが、これらが変化して神奈川になったと言われる。(Wikipedia)